犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 E・K 様

E・K 様

認定NPO法人こうち被害者支援センター
M・K 
「犯罪被害者の声第15集」より

今年は、3回忌でしたね。事故の起こった2月から誕生日の6月5日までは、毎年悲しい時期です。ですが、気落ちしながらも頑張って仕事をしています。
今書いている文章の題を決めた時に気づいたことがありました。あなたを失って、いろいろなことがありました。それもだいぶ落ち着いてきて、あなたの名前を手書きすることがなかったなと。愕然としました。これはあなたが生きてきた社会があなたを忘れることなのだと・・・、これから先、何かの用事で、あなたの名前を書くことはないのかと思うと、名前の重さ、命の重さに改めて心打ちひしがれる思いです。

Eは23歳のとき、車にはねられて亡くなりました。私には、たったひとりの子供でした。ひとつの希望でした。きちんとした大人になり、一人になっても生きていけるようにするのがわたしの生きていく支えでした。
Eはわたしが大変な時にいつも傍で見ていてくれて、生き生きと自分の好きなことをして大きくなってくれました。
Eの父である主人には、先妻の子供達がいて、その子供達と分け隔てないよう育てるのに、主人の子供達よりも厳しくしていました。それが私にとっては大切なことでした。
今になればそのように育てたことが、私の後悔となってしまっています。もっと大事にしてやればよかったと少し後悔しています。
主人の子供たちは血が半分しかつながっていないのに、Eを大事にしてくれました。おかげでEは、穏やかな人に育ってくれました。
Eは、小さいころから友達と遊ぶのが大好きでした。年上年下、大人子ども関係なく周りの人と接していました。Eは小学生、相手は高校生でゲーム対戦し、中学生のEと大人でカードゲームをして大人に勝ったり、本当に私の知らない所でいろいろな人とのつながりができていました。
年齢に関係なく人と交流できるその特性のおかげで、友達にも好かれていたようです。中心にいたというよりも、友達同士をつなぐ役割をいつもしていたように思います。

やっと大人になり、就職し本当に手がかからなくなった頃、この事故が起こりました。
事故後すぐは、Eと電話で話し、「大丈夫、大丈夫。」との声を聞いて良かった・・・と、そのつもりで病院に向かいました。
しかし、到着するともうEの口には管が入れられていて、医師から「植物人間になるか、障害が残るかになる。」と言われました。まさかまさかEにこんな大きな災難が降りかかるとは思いもしていなかったので、私はパニックになりました。後で母に聞いたところ、私は訳の分からないことを言っていたようです。時間が経つとともに、Eの容態は悪化し、私の希望がどんどん失われていきました。その日の午後1時過ぎには、医師よりもう死ぬ以外の選択肢がないことが伝えられました。事故から約8時間後のことでした。
悲しいとかしんどいとか憎いとかそういう生易しいものではなく、支えがなくなる、生きる希望“光”がなくなるという絶望でした。
それから死ぬまでの、私がEに付き添った25日間程と主人に付添をお願いした約24日間は、毎日絶望を抱えていました。いつ死んでしまうかわからないと言われていたので、毎日が耐え難い日々でした。
今日は生きていたと思い、ほんの少しだけ安心する。食事もするけど味のない、食べて味わうのではなく、押し込んで栄養を取り、倒れないようにするのがせいいっぱい。その上、夜は眠れないので、薬を飲んで寝る。でも少ししか眠れない日々を過ごし、それは今でも続いています。
子供が死んでしまうことが、こんなに絶望的で地獄のようなものとは、思いもしませんでした。
Eが死ぬことを認めざるを得ない事実、死ぬにあたって本人に聞こえているか聞こえていないかは別として、伝えなければならないこと、思い残すことを少しでも減すためにどうしたらいいのか、本人に伝えなければならないそのつらさ、そんなことばかりを考えていました。
すでに私の心は目いっぱいで溢れそうで、引き裂かれそうになっていました。頭もおかしくなっていたに違いありません。
病院では、ずっとそばにいてやることができませんでした。集中治療室だったためです。午前に1度、午後に1度、それぞれ10分程度顔を見ることができ、毎日足をさすり、ほほに触れていました。耳は聞こえているとの医師からのアドバイスで、私なりにいつも話しかけてもいました。その時も本当はつらく涙が出そうになるのですが、私が元気であることを息子に知らせるために無理をしてできるだけ明るく話しかけていました。
自分で呼吸も出来ない、生きるための薬を投与される、そんな状態なのに、頭以外の傷が治って、ひげや爪が伸びていく皮肉さを、今思い出しても涙が止まりません。そんな息子でも私の息子。本当に不憫でした。本人にとったらとても無念だったに違いありません。
私の母には、Eがたったひとりの孫です。私には姉がいますが、子供を持つことができませんでした。だからEは、実家を継ぐ、ひとつだけの希望でした。他に孫がいたらここまで悲しみが深くはなかったかと思います。Eがいなくなったことで、実家自体が途絶えることとなりました。
今は、ありとあらゆる希望を絶たれ、毎日ただ生きているような日々です。仕事はしてはいますが、ふっとEのことが浮かぶと打ち消さなければと必死になるような、そしてとてもとても悲しくなり、また忘れなければ、Eのいない生活に慣れなければと必死になります。そうなればなるほど不安が襲ってきます。3年前は生きていたのに・・・ね。

Eが亡くなったのが4月3日で、体はドナーとしていろいろな所に旅立ちました。父が亡くなってまだ5ケ月しか経っていなかったのに、この間に大切な家族を2人も失いました。私や母や兄弟にとっては、父の死の悲しみが癒えないままでの時でした。実家にとってこの事故は、悲しみを何倍にもさせることとなりました。

事故が起こってから今まで、加害者は若い人だから、彼女には明日があるから、私が同じようになったらとてもじゃなく生きていけないから、そんな中で生きさせるのはあまりにも酷だと思っていました。そして、3年目を迎えた今、Eをはねた彼女には子供ができ、結婚するようです。幸せになってほしいなんて思える訳ないけど、思うしかないことに、少し怒りを覚えます。
結婚し少なくとも子供が生まれると、希望でいっぱいな日々を送れることは確かで、そのような日々さえも奪われた息子が不憫でなりません。こんなに早く結婚するとは思いもせず、もう少し我慢して生きていてもらいたかった。

Eは、人としての人権を守ってもらう以前の、命そのものを車の事故で奪われました。
私は、加害者が事故後数年は車の免許を取らず、車に乗らず不便を我慢して、不自由に生きることが、Eに対する本当の謝罪になると思っていたのに、加害者の結婚などという、そういう幸せな一報を受けると、失ったものが多い上に諦めも背負って生きるのか、そして心に重くのしかかる何かにこれからも向かい合いながら私たち残された家族は、経験したことのない日々を命ある限り生きて行くしかないのかと。
人生は、はかない。
はかないからこの今を生きるのだと、被害者やご遺族の方々は、きっと同じ思いなのでしょう。
遺影以外の写真をまだまともに見ることも出来ず、あなたが寝ていた部屋にもまだ入ることができない弱虫なわたしを、どうぞEくん、日本のいろいろな所から、ずーっと見守って、わたしに力を貸してください。

                                                                      M・K