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犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 被害者が置かれている現状と事件がその後にもたらすもの

被害者が置かれている現状と事件がその後にもたらすもの

認定NPO法人大阪被害者支援アドボカシーセンター
自助グループ「ippo」
Y・Y
「犯罪被害者の声 第13集より」

「K君が事故に遭って病院に運ばれました。搬送先は救命救急センターです。すぐに行って下さい。」
職場で会議中の私が長男の小学校の担任の先生から受けた電話です。
  「救命救急センター・・・。」
心臓がバクバクと激しく鼓動し、とりあえず主人に連絡しなくてはと思ったものの、頭の中が真っ白になり、携帯電話の操作もできず、職場の人に連絡をしてもらいました。タクシーで病院に駆け付け、間もなく主人も到着しました。程なく医師から生命維持が極めて難しい状態であるという説明を受けました。私たちは錯乱状態の中、ただただ「がんばれ!がんばれ!絶対助かる!がんばれ・・・・」とすがるような気持ちで祈り続けました。そうしているうちに再度医師に呼ばれました。医師の口から出される言葉に一縷の望みを賭けて耳を傾けましたが、私たちの期待した言葉はなく、最後に言われた「きれいにするので確認に来て下さい。」という言葉だけが耳に残りました。「確認・・・。」全身が硬直し、血の気が引きました。夢か現実かもわからないような状態で、案内された場所に行くと、真っ赤に染まった大人のおむつほどの大きなガーゼを頭に巻かれた子どもがストレッチャーに寝かされていました。見たくありませんでした。何かの間違いであってほしい・・・。しかし・・・、間違いなく長男でした。装着されたモニターの数字は「0」。波形はフラットのままでした。ドラマの世界でした。私たちは周囲をはばかることもなく大声で泣き叫び、長男の名前を呼び続けました。

1.事件の概要
 私たちの息子は平成20年2月29日、信号機の設置されていない交差点の横断歩道を渡っていたところ、前方不注意のワンボックスカーに約13mもはね飛ばされ、尊い命を奪われてしまいました。口から大量の血を吐き、耳、鼻、頭からもおびただしい量の出血をし、頭蓋骨骨折、脳挫滅、両鎖骨・上腕骨骨折、全身打撲という悲惨極まりない最期でした。わずか10才3ヶ月。あまりにも短い人生・・・。余りにも哀れで不憫な最期・・・。
 加害者は当時21才。過去にも信号無視、スピード違反等で免停処分を何度も受けている悪質運転の常習犯でした。

2.息子と私たち家族について 
 息子は、私たちがようやく授かった双子の長男でした。元気な産声をあげて、全身の力を使って力一杯泣いていた息子の姿は今でもはっきりと目に焼き付いています。
健康でたくましく、太陽のように明るく元気に育ってほしいという願いを込めて、長男と次男には名付けました。これからどんな生活が始まるのかとても楽しみで希望に満ちていました。思い出をたくさん作ろうと、色々な所へ旅行に行ったり遊びに行ったりしました。家族の誕生日はみんなでお祝いをし、クリスマス、こどもの日、ひな祭り等の年中行事も欠かしませんでした。本当に楽しく幸せな日々でした。元気で明るくてやんちゃなところもあったけれど、情に厚く優しい気持ちがいっぱいだった息子。好奇心が旺盛で色々なことに興味を持ってとことん追求する子どもでした。そんな息子がどんなふうに成長していくのかとても楽しみでした。
 「ぼく、生まれてきてよかった。」とよく言っていた息子。毎日、元気に楽しく人生を歩んでいたのに・・・。大きな夢や希望に満ちあふれ、まさにこれから自分の人生を切り開いていこうという矢先の事故でした。
 野球選手、大きな夢に向かって頑張っていたのにね。世界遺産、行きたかったね。その夢や希望も一瞬にして潰えてしまいました。
 ある日突然、大切な命を一瞬にして奪い去る交通死亡事故。事故の一報が入った瞬間から私たちの幸せな家庭は一変しました。

       わが子を突然失う。人生で最も辛い出来事・・・。

3.わが子を見送るということ
 悪夢のような一夜が明け、現実を受け入れることもできないまま通夜・葬儀を執り行いました。お坊さんのお経を放心状態で聞き、参列して下さった何百人もの方がお焼香をして下さるのをぼんやりと眺めていました。一方で、しっかりしなければと懸命に自分を奮い立たせている私もいました。
 そして、いよいよ出棺の時が来ました。私は一番最後に息子の所に行き、野球のユニフォームと世界遺産に行けるように地図帳を入れてあげました。そして、大きく窪んだ額をなでながら「今までありがとう。」と精一杯の言葉をかけました。
 火葬場に着いてもう一度お別れをしました。息子の顔を見るのは本当にもうこれが最後です。非情としか言いようのないこの現実・・・。何で?・・・どうして?・・・逝かないで!このまま時間が止まってほしいと思いました。しかし、無情にも棺のふたは閉められてしまいました。機械に乗せられた棺が炉へと運ばれていくのを見送る私の胸は張り裂けそうでした。炉の扉がガシャンと閉まった時、私の人生も終わったと思いました。
 何時間かしてお骨拾いのため、火葬場へ戻りました。機械に乗った棺がゆっくりとこちらに運ばれてきます。次男はたまらず部屋の隅に逃げていき背を向けて顔を覆いました。娘もずっと主人にだっこされ、主人の胸に顔を埋めたままでした。棺が目の前まで来てピタッと止まったとき、私の息も止まりそうでした。棺のふたが開けられました。あのかわいい顔も元気に飛び跳ねていた身体もなくなり、白骨と化したその骨盤辺りに、野球のユニフォームのベルトのバックルだけが残っていました。衝撃が強すぎて、その映像は未だにフラッシュバックします。
 こんなになってしまった息子がかわいそうでたまりませんでした。息子の全てを連れて帰ってあげたいと思い、お骨は小さな小さなものまで全部拾い集めました。次男も気を取り直し、息子のお骨を一生懸命拾っていました。「僕が一番最初に出たお葬式が兄のお葬式っていうのはあんまりや」とつぶやいた次男。10年間共に成長し、2日前までいつも自分の隣にいた分身のような存在の双子の兄弟のお骨を拾う・・・。その次男の姿も一生忘れることができません。
 車の中で骨壺に入った息子を抱っこしました。私は、赤ちゃんだった息子を抱っこしていた時のことを思い出しました。あったかくてやわらかくて・・・私の両腕の中で安心しきってすやすやと眠る息子・・・あやされてキャッキャと笑う息子・・・ぐずって顔を真っ赤にして泣く息子・・・あの時は喜びと期待に満ち溢れていました。そして今、私はお骨になった息子を抱っこしている・・・冷たい暗黒の海に深く深く沈んでいくようでした。

4.息子を失って
 その後も、激しく心がかき乱され、突然、荒れ狂う海に放り込まれたかのようでした。くたくたに疲れているのに神経が高ぶって眠れず、ウトウトとして、朝、目覚めた時が最も辛い瞬間で「ああ、今日もまた息子がいない現実と向き合って一日を過ごさなければならない。」と思い、一大決心をしなければ布団から出ることができませんでした。生きているのが辛く、何をする気力も失い、這うようにしてどうにか一日一日を過ごしていました。事故の翌月、20年間勤めた仕事も退職しました。どうしてこんなことになったのか?何で?どうして・・・同じことが何度も頭を巡ります。
 主人が「どこからこぼれ落ちていったんやろう・・・。」とつぶやきました。私も同じことを思っていました。
 ぎゅうっと握りしめていたはずの息子の手。私はいつ放してしまったんだろう・・・。両腕の中で大切に大切にしっかりと守っていたはずだったのに、守ってあげられなかった・・・。ごめんね・・・。
 事件後1 ヶ月ほど経った頃、ようやく心療内科に行くことを思いつき、主人と共に受診しました。睡眠薬と精神安定剤を処方され、薬の力で無理矢理眠っている状態でした。後にPTSDと診断され、5年ほど通院しました。

   息子の双子の弟の次男は、下校途中、事故直後の現場を通りがかり、口から血を吐き、鼻や耳からも出血し、血だまりの中で倒れている息子を目撃して、強いショックを受けました。我が家は、共働きだったため、子どもに家の鍵を持たせていました。連れ去り等の被害に遭わないように、必ず二人で下校するように言い聞かせており、意図的に家の鍵を1つにして、2週間交代で鍵当番をさせていました。しかし、事故当日、次男は図工の作品を仕上げるために、放課後、教室で作業をしており、長男は最終下校時刻の4時半まで運動場で遊んで待っていたそうですが、次男が来ないため先に下校しました。この日の鍵当番は次男だったので、長男は家に入れず、自転車に乗って次男を迎えに行ったところ、事故に遭ったものと思われます。このため、次男は、自分が長男と一緒に下校していれば、長男が事故に遭うことはなかったと自責の念に苛まれ、現在もこの思いは次男の心の中に残っていると思います。「目を瞑ったら、倒れていた時の映像がカラーではっきりと思い浮かぶ。」と言います。
当時5歳だった長女も、生まれてからほとんど熱を出したこともない健康な子でしたが、ただならぬ雰囲気を感じ取り、通夜の日から1週間40度の高熱が続きました。事故後、長女の本箱から、覚えたてのたどたどしい字で「あたまからちからだがちょっとだけち ちはいた きゅきゅせんた」と書いてある紙を見つけました。長男の遺影と祭壇、棺らしき絵と横断歩道とワンボックスカーの絵も描かれていました。悲しみを言葉で表現することができず、小さな胸を痛め、本当に辛い思いをしていたのだと思いました。

①二次被害 
 長男を失ったショックや絶望感、喪失感の中、事故の詳細を知る手立てはなく、事故翌日の新聞に載った「横断歩道を自転車に乗って渡っていたところ、直進してきたワンボックスカーにはねられた」ということ以外は何もわからないままでした。警察に尋ねても「捜査中」とのことで教えてもらえませんでした。そのため余計に不安とストレスが募り、心身共にボロボロの状態で目撃者探しに奔走しました。事故現場周辺で聞き込みをしてビラを配ったり、長男が運ばれた救命救急センターのお医者さんに搬送時の状態を聞きに行ったり、警察で事情聴取を受けた加害者と警察の別室で個別面会し、事故状況を聞き出したりしました。
 検察に書類送検する直前になってようやく事故状況のみ簡単に説明を受けましたが、事故現場の様子や加害者や目撃者が何と言っているか等、詳しいことは一切教えてもらえませんでした。また、警察は、事件後間もなく事件現場に「左右確認」「横断歩道を渡りましょう」と書いた大きな看板を設置しました。これではまるで長男が悪いかのようです。警察は「2ヶ月前にも同じ場所で事故があったので3件目の事故を防ぐため。」と言いましたが、それなら横断歩道で徐行もしなかった車に注意を促すよう「横断歩道あり、徐行」という看板にしてほしかったです。現場は、スクールゾーンにも指定されています。抗議して1時間以上押し問答した末、撤去してもらいましたが、そのためか「飛び出し。」「渡ったらあかんとこ渡ったんや。」等という世間の心ない噂も耳に入るようになり、憔悴しきった心に追い打ちをかけられました。
 「元気?」「もう落ち着いた?」と聞いてくれる世間の人には作り笑いをするしかありませんでした。また、慰めのつもりかも知れませんが、「事故はしゃあない。」「運命やから。」等と言われると、命が失われているのにいとも簡単に一言で済まされてしまっているようで深く傷つきました。周りに心配をかけないように元気にしているのがしんどくて、「人生、狂わされたわ。」「もう幸せになられへん。」等とつい本音を言うと「そんなん言うたら、息子さん悲しむよ。」「幸せになって。」「事故現場を見た次男くんが一番辛いんだから。」「お母さんが頑張らないと。」等と言われ、励まして下さっているのはわかるのですが、こうして生きているだけでも頑張っているのに、この辛い気持ちはわかってもらえないんだなと思いました。周りの人との埋めがたい溝を感じて世間から取り残されたような感覚に陥り、強い孤独感に襲われました。
 事件や事故、自然災害等の被害者は、辛いことがあっても、それに負けずに頑張り、前向きに生きることを期待されます。それが日本では美徳とされています。だから本音が言えず孤独になるのです。遺族の会に行くと皆同じことを言っています。周囲に理解されないことが辛く、誰も知らない土地へ引っ越す人もいるほどですが、この気持ちは私も実際に被害者になって初めてわかりました。その中で、黙って話を聞いて寄り添って下さった方には、救われた気がしました。

②刑事裁判 
 警察での捜査も全て終わり、検察に全て書類送検したと連絡があり、担当の刑事さんから「今後のことはこれに書いてあるので」と、薄いパンフレットを渡されました。家に帰ってそのパンフレットを読もうとしたのですが、文字を目で追っているだけで、何度読み返しても内容が頭に入ってきませんでした。
   それからしばらくして検察庁から手紙が届き、検察庁に来るようにとのことでした。何をしに行くのかもわからずまた不安になりました。主人と二人で行ったのですが、まず検察庁の威圧感いっぱいの建物に圧倒され、中に入ると空気がピーンと張り詰めているようで息もできないほどでした。副検事さんからいくつか質問を受け、起訴する方向で考えているということを聞きました。
 しばらくして公判になったとの通知が来てほっとしました。程なく担当の検事さんから電話があり、公判に向けて打ち合わせをしたいので検察庁に来るようにとのことでした。今後の流れと被害者ができることの説明がありました。初めて聞く専門用語もあり、何かしら難しい世界へと引き込まれていくようでした。また、この時初めて警察で取った被害者調書も証拠として裁判に出されることを知りました。警察の段階でそれがわかっていたらもっと言いたいこともあったと伝えると、後日、検事さんが供述調書を取り直して下さいました。私はそれまで「証拠」という言葉の意味もわからず、ブレーキ痕や血痕のようなものが証拠だと思っており、「Yさんの気持ちも証拠です」と言われて初めてその意味がわかりました。
 それから間もなく、通夜・葬儀の時から諸々の手続きや事務処理等、非常スイッチを入れて頑張ってくれていた主人が鬱病を発症し、仕事に行けなくなったばかりか、1日中布団から起き上がれず、表情は消え、会話もなくなり、廃人のようになってしまいました。子どもたちは「パパがいると、家中、お葬式みたいや」と言うようになりました。その後、主人は9ヶ月間休職し、私も退職していたので収入は激減し、貯金を切り崩して生活をしなければなりませんでした。
 主人が鬱病で廃人のようになってしまったため、家のことや子ども達のこと、刑事裁判のことなど、全て私に降りかかってきました。私自身も悲しみに打ちひしがれ、誰かに寄りかかって泣いておきたい位でしたが、目の前にいる次男と長女の日常生活だけは何とか送らせなければならないことと、理不尽に命を奪われた長男のためにも、刑事裁判では自分のできる限りのことをするんだという強い思いから、しっかりしなければと気持ちを奮い立たせて1日1日を送っていました。特に刑事裁判の負担は重く、素人にはわからないことだらけで、一寸先も見えないような、真っ暗闇の中を手探りで進んで行かなければならず、これからどうなるんだろうという不安に押しつぶされそうでした。

 そんな中で迎えた初公判。被告は無罪主張をしてきました。横断歩道の上でノーブレーキで突っ込んできたのに、弁護人から「飛び込み自殺」「自ら死を選んだ」等と言われ、ただでさえ傷ついている私の心は更に切り裂かれ、もうぐちゃぐちゃになりました。交通ルールを守って横断歩道を渡っていたのに、そしてその幼い命までも奪われてしまったのにこんな言われ方をされ、人権までも踏みにじられた長男が不憫で不憫でたまりませんでした。弁護人は親の私が傍聴に来ていても被告人を守るためなら言いたい放題何を言っても許されるのかと思いました。これも二次被害です。検事さんの「絶対に無罪なんかにさせないから」という言葉を胸に、私も何としても犯人を刑務所にぶちこんでやりたいと思い、できるだけのことをやろうと決意しました。
 厳罰を求めて署名活動をしたり、検事さんに思いを伝えて供述調書を作成してもらったり、裁判の場では証人尋問、意見陳述をし、その打ち合わせで検事さんと面談したり、5回の公判も全て傍聴しました。また裁判所に証拠書類や公判記録の謄写申請をして、それらを読み込み、道路交通法や法律、前例を調べたりとできることは全てやりました。私の思いが強く、検事さんにできないと言われたこともありましたが、踏みにじられた長男の人権を取り戻し、命を奪われた悔しさを代弁できるのは私しかいないと思い、検事さんにお願いしました。この頃、味方だと信じていた検察も絶対的な味方ではないと感じるようになりました。刑事裁判では被害者側は当事者扱いされないため、真相を知るのも、思いを伝えるのにも莫大なエネルギーと時間を費やし、もうへとへとでした。心身共に極限状態に達していたと思います。証人尋問の打ち合わせで検察庁に行った時、検事さんに、「一番言いたいことは何ですか?」と聞かれ、「長男を返してほしいということです。」と言った瞬間、突然涙が溢れてきました。泣いている場合じゃないと思い、必死でこらえていると、検事さんから、「我慢しないで。」と言われ、その瞬間、今まで張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れ、大声で泣き叫んでしまいました。そして過呼吸になり、病院へ運ばれる事態に至ってしまいました。人前でこんなに取り乱した経験はなく、自分でも信じられず、その後は、検察庁や裁判所に行くとまた過呼吸になるのではないかという不安に苛まれました。

 論告求刑公判での検事さんの論告は胸に深く染み込んできました。しかし、求刑は禁固2年6月・・・。法の壁を感じました。そして、判決は更に軽く、禁固1年6月。いっぱい生きられたのに・・・悔しすぎるね、と長男に呼びかけました。

 被害者は、刑事裁判では当事者として扱ってもらえないので、判決に不服でも控訴もできないと知り、本当に蚊帳の外に追いやられていると感じました。検事さんに控訴してほしいとお願いしました。後日、検察庁に呼ばれ、検事さんから、結局は新たな事実が出てこない限り一審通りと言われるだろうということ、これでも判例に照らすと重い判決であること等から控訴できないという説明を受けました。そして、涙ながらに「被害者の辛さを肌で感じました。60年以上も前にできた日本国憲法は、今の時代に合わなくなってきていると思います。これからはもっともっと被害者の人たちのことを考えていかないといけないと思います。このことは一生忘れません。」と言って下さいました。そして長男のお仏壇に手を合わせに来て下さいました。初めて救われたと思いました。

③大阪被害者支援アドボカシーセンターと出会って
 初公判の直前になってもう一度警察からもらったパンフレットを広げて見てみると、一番最後のページに被害者センターの連絡先一覧がありました。しかし、自分で電話をする勇気はなく、警察に電話をして聞いてみたのですが、「そんなん書いてありましたっけ?調べて後で連絡します。」というお返事でした。被害者に渡すパンフレットの内容ぐらいは知っておいてほしいと思いました。そして、折り返しのお電話で大阪被害者支援アドボカシーセンターを紹介してもらいました。警察の方からアドボカシーセンターに連絡を入れて頂き、アドボカシーセンターの支援員さんからお電話を頂きました。とても丁寧で包み込むような優しい感じを受け、心強く思いました。
 その後、刑事裁判についてわからないことを色々と教えて頂いたり、公判の時には毎回、センターの支援員の方2人が裁判所の入り口で待っていて下さり、法廷でもずっと付き添って下さいました。初公判の後、裁判所に残って証拠書類の謄写申請をする時も一緒にいて下さいました。その時、事務の人に、地下の郵便局で小切手を買ってくるようにと言われたのですが、気力・体力共に消耗しきっていて、果てしなく遠くまで行って買ってくるように言われたような気分でした。それを察して、センターの方が地下まで行って買ってきて下さり、本当にありがたかったです。また、センターには電話相談があり、辛い気持ちを何度も聞いて頂きました。弁護士さんの電話相談や、実際に弁護士さんと面会しての相談も90分まで無料でできる制度もあり、本当にありがたく利用させて頂きました。刑事裁判が終わってからも辛い気持ちを被害者同士で話ができる自助グループもあり、私も何度も参加させて頂きました。
 私は、不幸中の幸いでアドボカシーセンターと繋がり、支援を受けることができましたが、その存在も知らず、たった一人で苦しんでいる被害者の方もたくさんいらっしゃいます。被害者はある日突然、非常事態に陥り、心身共に極限状態にあるので、今までできていたことができなくなったり、判断力や行動力も損なわれます。そして、今まで経験したことがないようなことも次々と降りかかってくるので、絶対に救いの手が必要なのです。警察の方にお願いしたいのですが、被害者センターの紹介は必ずしてあげてほしいと思います。

④家族関係 
 思い描いていた家族像はぶち壊され、明るく楽しかった我が家は、暗く沈んでしまいました。主人は休職を余儀なくされ、子ども達に主人のこのような姿を見せたくなかったので、主人の実家で見てもらうことにしました。「預ける」と言った私の言葉に義父が引っかかって大げんかになり、修復しがたい溝ができてしまいました。また、刑事裁判の時に、厳罰を求めて集めた署名用紙は、公判の場で検事さんを通して裁判長に出さなければならならないのですが、弁護側から不同意と言われると出せなくなることが予想されたため、裁判所に直接送りつけろと言う私の父とも大げんかになり、父はその後、裁判の傍聴にも来なくなり、半年以上音信不通となりました。
 裁判関係のことは、子ども達が寝静まってから深夜にかけて、時には明け方までやっていました。不思議と眠くはなく、いくらでも起きて頑張ることができ、眠るには睡眠薬が必要でした。しかし、睡眠薬で眠ると今度は朝早く起きられず、次男は一人で起きて朝食を食べ、朝の支度をしていました。次男が出かける頃、ようやく重い頭と体を引きずって起き「いってらっしゃい。」と言うのが精一杯でした。夕方、保育所から帰って来た長女にも、遊んでやったり十分に構ってやるような余裕はなく、寂しい思いをさせたと思います。
 主人は、翌年の4月から復職したものの、今度は躁状態になりました。躁状態というと、陽気になることだと思われがちですが、そうではなく、気が大きくなり、浪費をしたり、自信過剰になって人の忠告に耳を貸さなくなるばかりか、注意をする人に攻撃的になったりするそうです。主人も正にその状態で、新築から4年しか経っていない家の屋根をソーラーに変えるとか、5年しか乗っていない長男との思い出が詰まった車を買い替えるとか、衣服に無頓着だったのが、ブランドものの服を買い込んだりするようになりました。ちょっとしたことにも攻撃的で夫婦げんかに発展し、すぐに家を飛び出し、何日も車で寝泊まりし、精神異常とも言えるような攻撃的なメールを次々に送りつけてくるのでした。
 長男を失った悲しみの中、色々なことが降りかかってきている上に、主人に振り回され、私はもう限界でした。主治医は、病気だから理解してあげてと言いますが、私も悲しい思いをしてこうして頑張っているのにと思い、主人を大きな心で包んであげるだけの余裕はなく、腹が立って仕方がありませんでした。我が家はもうめちゃくちゃになりました。何度も離婚しようと思いました。けれどもこんなことがなければ、我が家は、明るく元気に幸せに暮らしていたのです。犯人に長男を奪われた上に、家庭までも崩壊させられるのは、あまりにも悔しいと思い、その都度思いとどまりました。
 阪神大震災の時に「震災離婚」という言葉を聞いたことを思い出しました。その時は、大変な時にこそ家族で一致団結しなければならないのにと思い、どうしてそうなるのか理解できませんでした。しかし、今はよくわかります。みんな、究極の悲しみに直面すると、自分のことが精一杯で相手や家族のことを思いやる余裕がなく、すれ違いが生じてくるのです。
 私のストレスは次男と長女にも及び、何度も同じ注意をしていると感情が抑えきれなくなり、手が出てしまいました。そして「あんたが代わりになればよかったんや!」と最悪の言葉が出てしまいました。本当は次男も長女も大好きで、長男と同じように大切な大切な子どもです。精一杯の愛情を注いで育ててきたつもりですが、その愛情など伝わっているはずもなく、子ども達の心に消えることのない傷を負わせてしまったと思います。長男がいた頃の「よく働き、よく学び、よく遊ぶ。元気で明るく楽しい家族」に戻りたいと思っています。けれども、タイヤを1つ失った車がうまく走らないのと同じように、居るべき人間を1人失った我が家は、どうしても以前のようには戻りませんでした。11年半経った現在も、それぞれが負った悲しみや傷は消えることはなく、事件が我が家にもたらした爪痕の深さを感じます。

⑤民事裁判
事件後間もなく、子どもを失った直後で憔悴しきっているところに、加害者側の保険会社から連絡がありました。保険の話など到底できる状況ではないことと、刑事裁判が全て終わってからにしてほしい旨を伝えました。
 そして10ヶ月後、刑事裁判が終わり、全精力を使い果たし、主人も躁鬱を繰り返し、家族がごちゃごちゃになっているところに保険会社との被害弁償の話が舞い戻ってきました。保険会社から提示された金額が何を根拠にどこから出てきているのかもわかりませんでしたが、これが命の値段?と思うほどだったので、受け入れられないと言いました。そこで弁護士さんを雇い意見書を書いてもらうと少し増額されましたが、到底納得できませんでした。保険会社の担当者から「いくらやったら納得できるんですか?」と聞かれ、わが子の命の値段を決めることはできないと思い、裁判所に決めてもらうことにし、民事裁判を起しました。
 民事裁判は刑事裁判と違い、法廷に来ているのは加害者側の保険会社の弁護士だけです。準備書面を事前に提出し、法廷でのやりとりはなく、次回期日を決めるだけです。被告は加害者なのに一体誰と闘っているのかと思いました。しかも加害者は事件当日、塗装会社の仕事帰りで、会社の車で事故を起したため、会社が入っている保険で被害弁償がされるのです。ですから加害者本人は保険代を払っていたわけでもなく、1円も支払わなくて済むのです。保険会社からではなく加害者から取って破産させてやりたい気持ちでしたが、そうはいかず、悔しい思いをしました。
 また、民事裁判では過失割合が争点となりました。警察の捜査段階で制限速度40km/hの道路を40km/hで走っていましたと言った被告の証言と目撃者の40~50km/hと言う証言で起訴状が40km/hとなり、また停車位置と認定された位置も事故状況からするとどう考えてもおかしいのですが、それを覆すだけの証拠が必要なので鑑定士さんに鑑定をお願いしました。鑑定の結果、59. 5km/hという結果とその理由を鑑定書にしてもらい、裁判に提出しました。すると相手方も反論の鑑定書を出してきて鑑定の応酬となりました。
 素人ではわからないことだらけなので、弁護士さんに聞いたり、準備書面についても色々と質問し、こちらの想いも伝えたりしていました。弁護士さんも、最初の頃は丁寧に対応して下さっていましたが、私が細かいところまで聞いたりするので、だんだんと煩わしくなってこられたようで折り合いが悪くなり、別の弁護士さんにお願いすることにしました。金銭面でもかなり痛かったのですが、精神的なストレスの方が大きかったのです。
 そうして提訴から約1年後、一審の判決は、息子の過失が15%、加害者側が85%で勝訴しました。息子の過失15%の理由は、息子が自転車で横断歩道を渡っており、道路交通法では自転車は軽車両なので、「車同士の事故」という扱いになるからとのことでした。子どもの自転車と大きなワンボックスカーが「車同士の事故」ということに到底、納得がいかず控訴しました。続く2審では和解勧告が来ましたが、とりあえず裁判官と直接話せる機会だと思い裁判所に行って疑問点などを質問し、想いを書いた文書を受け取ってもらいました。和解は受けず判決にしてもらいましたが結果は同じでした。交通事故で上告はないと弁護士さんに言われましたが、最後までやらなければ後悔が残るので無理を承知で上告してもらいました。結果は棄却。提訴から5年近くの月日が経っていました。

⑥悲しみは永遠に 
 息子が亡くなってから11年半が過ぎ、端から見れば元気を取り戻したかのように見えるかもしれませんが、わが子を突然、理不尽としか言いようのない形で奪われた悔しさは決して薄れることはなく、その悲しみは何年経とうとも癒えることはありません。長男のことは一日たりとも忘れたことはありません。家族そろって「いただきます。」をしていた食事の時は、誰も座らない椅子がひとつ空いています。その空間はとても大きく、私たちの心にも同じように大きな穴がポッカリと空いたままです。息子の学習机やランドセルはその時のままです。使ってくれる持ち主がいなくなってとても寂しそうです。クローゼットを開けるとお揃いの服やカバンが二つずつあり、見るたびに元気いっぱいだった息子の姿が思い出され、何故こんなことになったのかと・・・。そしてもう一度あの幸せだった日々に戻りたい、息子に会いたいと思うのです。
 息子と一緒に行った思い出の場所に行くと、その時々の息子の様子や言っていた言葉が思い出され、今ここにいない現実とのギャップに落ち込みます。双子の次男の学校の行事に行くと、長男がいないことを思い知らされました。入学式、卒業式、成人式・・・そして誕生日は最も辛い日になってしまいました。次男の誕生日でもあるので、主役が一人欠けた誕生日を笑顔でお祝いしなければなりません。年末年始、世間が華やいでいると自分一人が浮いているようで、毎年早く過ぎてほしいと願うばかりです。年賀状や新年の挨拶ではどうしても「おめでとうございます。」という気にはなれません。毎朝毎晩、お仏壇に向かって手を合わせていますが、遺影の息子は決して大きくなることはなく10歳のあどけない笑顔のままです。そして「何でぼく、死ななあかんかったん?せっかく生まれてきたのに。もっともっとやりたいこといっぱいあったのに。」という声が聞こえてきます。
 愛するわが子を突然奪われた悲しみと苦しみは、命ある限り、決して薄れることはありません。

5.被害者になって思うこと
 被害者になって思うのは、日本の法律は、加害者を守り、更正させることに重点が置かれているということです。刑事裁判では加害者には黙秘権が与えられ、国選で弁護人が付き、徹底防御してもらえます。そして、刑務所に入っても、衣食住や医療に至るまで全て税金で賄われ、社会復帰や更正教育のプログラムも用意され、仮釈放となれば、保護観察司まで付きます。交通犯罪の場合には、保険にまでも守られています。一方、被害者に対して、国は何もしてくれません。立ち直るプログラムもなければ、病院にも連れて行ってもらえません。それどころか大切な家族を失っても事件の詳細は自分の努力なしには知ることができません。努力にも限界があり、闇に包まれたままの部分は、一生心に引っかかったままです。
 息子の命を奪った加害者も事故当日に逮捕されたものの、翌日には釈放され、刑が確定するまでは自由の身でいることができるので、元の職場で働き、給料までもらっていました。そして、刑務所にわずか1年半、服役しただけで社会復帰をし、免許まで再取得してのうのうと普通の暮らしをしています。
 一方、被害者の息子は、社会復帰どころかこの世に戻ってくることもできないのです。交通ルールを守り、安全だと信じて渡った横断歩道。そこで、まさか自分の何十倍もあるような大きな車体が襲いかかってこようとは・・・。地面にたたきつけられ、それでもふらふらと立ち上がり、「痛い・・」と言ってガバッと血を吐いて倒れたと、口伝えに何人もの人から聞きました。大きな車体が目前に迫ってきた時に感じた恐怖感、ぶつかった瞬間に感じた身体的苦痛、壊滅的な損傷を受けながらも「痛い。」と言って立ち上がった時どんな思いだったのか、冷たいアスファルトの上で遠のく意識の中、たった一人で何を思ったのか・・・たとえ数秒間であれ、息子の味わった恐怖感や苦痛、無念さを思うと胸をえぐられるような感覚に陥ります。親としてそばにいてやることもできず、何もしてやれなかったという痛恨の思いがずっと残っています。せっかくうちの家に生まれてきてくれたのにね。守ってあげられなかった・・・。息子はもう二度と私たちのところに帰ってくることはできないのです。
 残された私たち家族もまた、一生、深い悲しみと苦しみを背負って生きていかなければなりません。私たちは、「わが子を失った」そのことだけでどれほど悲しく、辛く、苦しいか。筆舌に尽くしがたく、「引きちぎられた」「もぎ取られた」「引き裂かれた」といった感覚でしょうか。その上、捜査の段階から蚊帳の外に追いやられ、世間の心ない噂に傷つき、次から次へと二次被害に遭い、追い打ちをかけるようにして苦しめられてきました。私たちの人生は大きく狂わされ、楽しく幸せに暮らしていた家庭は破壊されました。
 息子は、何も悪いことをしていないのに命を奪われ、私たち遺族は終身刑を下されたようなものです。こんな理不尽な不条理なことってあるのでしょうか。司法は被害者にあまりにも冷たいと思います。国は犯罪者にばかりお金を使っていますが、被害者にももっとお金を使い、支援する体制を整えていくべきだと思います。

 傷ついた被害者・遺族が少しでも癒やされ、少しでも平穏な生活を取り戻せるように、国や世間の人たちに、被害者・遺族が置かれている現状を知って頂き、傷ついた被害者・遺族こそが救われる国になってほしいと切に願います。