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犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 娘の残してくれた温もり

娘の残してくれた温もり

公益社団法人山口被害者支援センター
M・K
「犯罪被害者の声第12集より」

私の忘れられない体験は 4 年前2014年 2 月13日午前 0 時52分頃の出来事です。

長女は、隣町の病院で働く看護師でした。当時25歳で、プリセプターという後輩指導をしていて、仕事もそろそろ板につき充実した日々を送っていました。

私はというと、7 カ月前に病床であった実父が他界し、その 5 カ月目ごろ実母が、指を切断するという大怪我をし、日々リハビリの送り迎えをしていました。そして、同居である認知症の義母の介護もし、毎日が疲弊していました。ある日、同居の義母が徘徊。私と、当時同居であった息子の二人で夜中の二時、三時台に探しに出かけ、のんきに帰りつつある義母を発見した時には、我慢の限界まで来ていました。

そして、私は長女に
「お正月からこっち、帰ってきてないから、話を聴いてよ。」と、SOSを発信したのです。

2 月11日、長女は日勤の仕事を終え、夕方久しぶりに自宅へ帰ってきました。いつものように一緒に夕飯を作り何事もなくその日は終了。
次の日は、下の子と上の娘と 3 人で、お出かけ。私の病院の送り迎えをしてくれ、帰宅時に夕飯何が食べたいかと聞くとすかさず
「昨日は、一緒に作ったんやけ〜今日は、お母さんの手料理が食べたい。」そういわれ、仕方なく近くのスーパーで買い物をし、自宅へと帰宅。
まったく夕飯の手伝いをしてくれず、私がすべて作り夕食。
「お母さんが作ったものは何でも美味しい。」と長女は言って、その日は不味い某ラーメンの残りを、さも美味しそうに食べてくれました。そして、入浴。いつもなら烏の行水の娘が珍しく長風呂で、将来の夢や、今後の生き方、仕事の愚痴や嬉しい事など、色々な話をしてくれます。

「初めから 3 年たったら、京都の病院に転職しようと思っちょったんじゃけど、師長さんから 4 月からはリーダーを頼むと言われて、もう 3 年今の病院で頑張ろうと思う。それに、こっちにいれば仕事の悩みとか、お母さんに聞いてもらえるから、これからもお願いね。」等々・・。私があがろうとすると、
「せっかく私が話しよるのに。」
と、また湯船に入れさせられました。

お風呂から上がり、これまた私一人がヨーグルトに缶詰やフルーツを盛り合わせたデザートを作り、家族にふるまいました。その後、娘は下の子とアニメを見始めました。明日は日勤だからと促し、せっかく見ているアニメもそこそこに帰り支度をしている娘。キッチン横の壁にかけてあるカレンダーに明日以降の勤務日程を書き込み、
「じゃあね」といって勝手口から出ていこうとする娘に、
「じゃあね。寒いから出んけど、気を付けて帰るのよ。」と声をかけました。いつもなら外まで見送って車がみえなくなるまでいるのに、その日に限っては、リビングから軽く見送ってしまったのです。

それから30分後。携帯の『友達探す』のアプリで娘の位置情報を確認するのですが、アパートに着かず中途半端なところで携帯が移動しません。 1 時間たったところで、あまりにも気になり、確認の為に出かける私。それに続く息子。息子の運転で携帯の示している場所へと向かいました。途中の電光掲示板に『○○町 事故のため 通行止め』と、交通事故の案内が・・・。慌てて私は、位置情報を確認しました。娘の携帯の指示している場所と、それは残念なことに一致していました。それでも息子は違うと言い張りながら、横で運転してくれています。私の手はドンドン震えていき、息子がそっと手を抑えてくれました。
通行止めの場所まで行き、その場にいた警察官の方に状況を話すと少し離れた病院へ行くように指示されました。レッカーの移動も言われたのですが、私は動揺していて携帯の番号が探せないのを見て、息子が荒々しく 「そちらで、お願いします。」と答えました。そのまま迂回し、目的の病院へ。着いた時が丁度警察の人達が来られた時でした。必死で追いつき歩きながら聞きます。
「相手の方は大丈夫ですか?」私は、娘の事よりもまず、相手を心配していたのです。すると、警察官の方が、
「相手はちょっと足を怪我していますが、大したことはありません。
逮捕しましたから。100%相手の悪い事故です。」声を荒げ、まるで長女の為に怒っていてくださっている様子にすこし喜びを感じるとともに、ふと娘の状態に気が移り頭の中では不安がいっぱいになっていきました。

救急の診察室から出てこられた先生。その後から、看護師さん。このただならぬ雰囲気は、私を躊躇させ何か聞きたくないそんな気持ちにさせました。
「救急車で運ばれて来たときは心肺停止状態でした。即死だったと思います。私たちにできる事は何もありませんでした。どうも申し訳ありません・・・・・」深々と頭を下げられる医師と、看護師さん。

言葉はわかるが、意味が飲みこめない。
・ ・・心肺停止?
・ ・・だれが?ようやく娘の事だとうっすらと理解した時には、腰が抜けその場に座り、何か叫んでいたのを覚えています。その様子を、警察官三人の人が見ながら、申し訳なさそうなのか、早くしてほしいのか、何とはなく冷ややかな感じも受けました。

「娘に会えますか。」本来なら、遺体見分が先らしいのですが、中央分離帯を乗り越えてきたトラックが100%悪いからという事で、特別に先に会わせてもらえました。救急の準備室に入ると、青いストレッチャーがみえました。ストレッチャーに寝かされている人は確かに、さっきまで話していた娘のようです。まずは見てみました。髪がゴワゴワになり首には大きなガーゼが貼ってありました。歯並びのとてもきれいな娘は口を少し開けており、その中にはいびつな形になった歯がすきっぱになりバラバラに並んでいました。首のホクロをみつけ、娘だと確信しました。娘の口を閉じさせたいと言うと、顎の骨がボロボロに砕けているので、無理に閉めると顔の形が変型してしまうのでと、看護師さんが説明されました。この光景を覚えることは無理かもしれないと思い、私は、写真を撮らせてもらうようお願いしました。もちろん了承され、娘の無残な姿を息子がカメラに収めました。ぱっかりと開いた足の傷からは一滴も血が流れていませんでした。確かに息はしていないようでした。何度も私は娘を、ゆり起こしてみました。

「まどちゃん、明日は病院でしょ。こんなところで、寝てたらダメだよ。起きて!!!。」なんと空しい声掛けなのでしょうか。冷たくなったその体は動くことなく、静かに横たわっています。
現実を受け止める為、その時撮った写真はその後、心の整理の役に立っています。車の中の娘の最期を見ることができない私にとって、娘の最期を見ることはこれ以外になく、事実を受け止める唯一のものとなりました。私は事実から、起こった事を理解するしかありませんでした。

警察官が遺体見分をし、そののち、
「遺体検案書を警察署に持ってきていただけないと葬儀が出来ませんよ。」
と言われ去って行かれました。
・ ・・遺体検案書?
・ ・・死亡診断書じゃないんだ。
このことは今以て私の心に突き刺さります。 7 か月前に他界した父は死亡診断書で、何時何分と正確に書かれています。娘は誰にも看取られることもなく、何時何分に亡くなったのかすらわからないその書類は、むなしさと、悲しさと、ありとあらゆるものが入り混じった一枚の紙となりました。

娘に後ろ髪をひかれながら、その書類をもって、警察署へ。娘の所在が分かった携帯が欲しいというと、現場近くの警察署へいけば、特別にあげますと言われました。交通事故で娘を亡くしていながら、車で移動しなくてはいけなかったので、このことはのち数か月間息子に、フラッシュバックとパニックを起こすのに容易なものと変わってしまいました。現場近くの警察署に行くと娘のバックは車からすでに出されており、警察内にありました。しかし、その中に携帯がありませんでした。娘を見つけることができた携帯は、私にとってはかけがえのないものでした。警察の方にお願いすると、車の中かもと言われ、来た時に見た、外にブルーシートで覆われたあの物体の中を探してくれました。でも見つからない。私と息子は車を見せてもらい探させてほしいと懇願しました。本来は実況見分も済んでいないのでできないところですが、これまた特別に見せてもらえました。携帯を探すのももちろんですが、本当に娘の車なのかどんなふうになっているのかこの目で事実を見たかったのです。
ブルーシートから出てきた物体は、車だとはわかりませんでした。何かプラスチックの大きな壊れたおもちゃのような、それくらいにひしゃげてつぶされ、原型などないくらいになっていました。そのない空間の助手席の下らしきところから携帯は見つかりました。私が見つけました。まるで待っているかのようにそれは見つかったのです。後日消防署の方から、亡くなった時、助手席の方に頭を落としていたと聞きました。まさしく私が電話をかけたり、LINEをしていた時娘の頭は、そこにあったのです。微かでもいい電話のコール音が娘の耳に届いていたと思いたい・・・・。

警察署から病院に戻ったら、丁度処置が終わったと、看護師さんに言われました。私と息子はもう一度処置室へと入りました。そこにはやはり、さっきと同じ光景がありました。変わることのない、娘の遺体。遺体検案書に頸椎脱臼骨折と書かれていたことを思い出しました。私は子どもたちが熱を出したとき、首の後ろを触るのが癖なのですが、ふとそれを娘にしました。

「熱い!!!」娘の首は熱が出ているように熱かったのです。私は思わず息子の手を取り姉の首を触らせようとしました。息子は姉の死を受けとめられていなかったのか私の手をはねのけ自分の手を後ろにやって
「そんなはずはないよ」と、言いました。私は、
「うそじゃないよ、本当に熱いんだから」そういって、もう一度娘の首を触りました。
「・・・・・冷たい。」今度は氷よりも冷たい首がそこにありました。

でもさっきは確かに熱かったのです。首の温もりがまだ私の手の中に残っています。きっと娘は私に最期の言葉の代わりに全エネルギーを首に集めていたのだと今は思います。
「お母さん、ありがとう。こんなかたちで亡くなってしまってごめんね」そう私に語りかけてくれていたのだと思いたいです。私だけにくれた、娘の最後のサインでした。病院側の配慮か、娘は霊安室でなく、救急の準備室にそのまま置いてもらえました。この事は娘を最後まで生きた人としてあつかってもらえたので、今でも心が救われます。

病院から葬儀場に行くときの車の中、何度も何度も、娘を起こし続けていました。もう駄目だと頭ではわかっているのですが、心がついていきません。連れて帰る時、
「ここを右に曲がると葬儀場で、左に曲がると娘がいつも帰っていた自宅があります。」そういうと迎えに来てくださった方が「ご自宅に少しだけ寄りませんか。」と提案してくださいました。
「じゃあね」と言った娘は 7 時間半後、静かに自宅横に帰ってきました。認知症の義母がいるので、家に入れることはできずに、下の子が後ろの息子の車に乗り込んだところで、葬儀場へと向かいました。
病院から娘を連れて帰って葬儀。呆然としている状態で決めなくてはいけないことが山のようにあり、涙も出ているのか出ていないのかすらわからない。感情というものがどこかへ行ってしまったそんな感じでした。

お骨になった時、健康だった娘の骨は頭の先から足の先までとても分厚く頑丈で、ほんのりとピンク色をしており、理科の標本のようにきれいに揃っていました。父の時はボロボロだったのに、娘の骨はあまりの大きさに、 3 分の 1 も骨壺に入りませんでした。周囲の目があったから、できませんでしたが今ではあのお骨を全部持って帰ればよかったと後悔しています。

それからの私は自分が生きているのか、死んでいるのかわからなくなっていきました。だんだんと料理が作れなくなっていきました。なぜなら、また私が一人で料理を作ったら他の家族を失うかもしれないと思うからです。スーパーも行けなくなりました。夜になるとあの日の時間軸を追って眠れなくなっていきました。私のせいで娘が亡くなったという自責の念が、私を追い込んでいきました。

私は加害者より、自分が憎かった。私が娘を殺したのです。帰ってきてくれと言ったために娘は亡くなりました。娘を亡くしてから 2 か月後、かかりつけの病院の先生から、もともと持っている耳鳴りの検査のために脳神経外科を紹介され受診しました。脳には異常がなく、さりげなく同じ病院内の心療内科を勧められました。かかりつけの先生は、ちゃんと私の状態をみて適切な配慮をしてくれたのです。私は心療内科に通って 2 ヶ月後、先生に、カウンセリングが受けたいと言いました。次の受診時に先生が、小さい紙を私にくださいました。そこには被害者支援センターの名前と電話番号が、可愛い丸い字で書かれてありました。その紙をもらったものの、自宅に帰って私は、電話の前で何時間も座っていました。かける勇気がなかったのです。ようやく、重い受話器を取り電話をかけました。
「はい、山口被害者支援センターです。」
暖かい声が電話口から聞こえてきました。沈黙のあと私は
「娘を事故で亡くして・・・」と言うとその方は
「よく電話をかけてくださいましたね。」と言ってくださいました。その言葉に私は安堵し、たぶん泣きながら話したと思います。その間、やさしい声掛けをいただき、ようやく心が少しだけ解けていったのを覚えています。すぐにカウンセリングの日にちが決まり、自宅に迎えに来てくださいました。車の運転もできない私にとって、とてもありがたかったです。私はようやく、カウンセラーさんに思いっきり泣きながら辛かった出来事を話すことができました。他にも、警察でとられた供述書に加害者の為の誘導的文章が入っていたのを訂正したい旨をセンターの方に伝えたところ、すぐに警察の方に連絡をしてくださり、供述書の追加をお願いすることができました。検察庁での調書の時、裁判の傍聴、これらすべてに付き添いをしてくださいました。そこにセンターの方がいらっしゃるだけで安心することができました。

 加害者に対しては、自ら裁判で、意見陳述をしました。嘘をついた彼に私の想いが伝わっていればよいのですが。

 私への支援は 4 年たった今でも続いています。心がどうしようもない時、安心して相談できる場所があるというのは、とても心強いものです。
自分の心の整理をしようと被害者支援センターの養成講座を受けました。PTSDの説明や、色々なことを勉強し辛いことを思い出すことも多かったのですが、それが逆に心の辛さを吐き出せ楽になっていけました。直接支援員の資格もいただきその次の年には、養成講座の講師として娘のことを話させてもらえました。そして一つの道がみえてきました。娘を生かすために多くの人に娘を覚えてもらおうと。人は二度亡くなります。一度目は身体がなくなること、そして二度目はその人が人の記憶から消えてしまうこと。私は、娘を生かしたいのです。希望に満ちて前を向いて生きていた娘を、皆さんの心の中に生かして欲しいのです。
私は死ぬことは怖くありません。あの世では娘が待っていてくれるからです。本当は、今を生きることは死ぬことよりも辛いです。でも今は娘の果たすべきだった社会貢献をしていくこと。これが私の課せられた生き方なのだと思います。今も娘の首のぬくもりは右手に残っています。これは事実なんです。お骨になった時の骨壺を抱えたあの時の温もりも同じ熱さでした。今日もそのぬくもりを感じながら、娘と共に生きています。子ども達はどこにいても、何をしていてもいいんです。生きてさえいてくれれば・・・・。日々のなにげない幸せがどれだけ大切だったのか、娘を亡くす前に知っておけばよかったのに。
私にとって、家族の大切な思い出は羽毛布団です。とっても柔らかく暖かく。その羽毛布団の端っこにブラックホールのような底なし沼が引っ付いています。私はそれらを圧縮して持てるサイズにして、いつも心のポケットに入れています。そして思い出したいとき、それを心の中で開けます。そうすると幸せだった日々がポワッと広がって目の前に現れます。その最後にやはりブラックホールがついています。そのブラックホールは吸い込まれるほど強いからこそ、その羽毛布団がより柔らかくあたたかく感じます。

円香、生まれてきてくれてありがとう。たくさんの幸せを、ありがとう。これからは一緒に生きていこうね。