犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 「それでも時間は過ぎてゆく」

「それでも時間は過ぎてゆく」

公益社団法人被害者支援センターやまなし
自助グループ「ゆるら」
T・I
「犯罪被害者の声第12集より」

私たち家族にふりかかった悪夢のような出来事は、私にとってごく普通の、ゆっくりとくつろいでいた日曜日の夜に突然起こりました。長男と次男は、既に結婚を機に独立してそれぞれ暮らしていましたので、当時は大学に通っていた長女と、私たち夫婦の三人での生活は、平凡でしたが笑いが絶えない、そんな日々でした。

その日、隣人から、「不審者が隣家の裏をうろついているので警察には連絡したけれど気をつけて」との突然の電話が入り、気味の悪い思いもしながら主人にその旨を伝えました。その時には主人は、「警察が来てくれるなら大丈夫だ」と言っていました。しかし、主人が家の外を見ていた時、不審者らしき姿を見つけたようで、責任感の強かった主人は懐中電灯を持って、不審者の方へ向かって歩きだしました。
私も主人のそんな後ろ姿を、自宅の裏口から何気なく見ながら様子をうかがっていました。

主人は、不審者の前まで行ったとたん急に「ワー!」と言う声と共にその場に倒れこんでしまいました。その時私は、いったい何が起きたのかを考える余裕さえありませんでした。しかし、無意識のうちに「誰か〜、誰か〜」と、自分では大声で何度も叫んでいたように思いますが、誰一人来ませんでした。主人はその間にも何箇所も刺されていました。私はただ、主人を助けたい一心で、主人を刺した男を殴ろうと考え、近くに置いてあった農機具を持って近づいてみましたが、怖くなり尻込みしていると、主人がうめき声とともに、警察に電話をする様にと叫びました。
しかし、動揺していた私は、急いで家に戻り電話機の110番を押しましたが、なかなか助けを求める第一声が発せられずにいました。
そこで、私は受話器を持ったまま、主人のもとへ行きました。
その時は、既に男はいませんでした。

主人は、うつ伏せに横たわったままで、身動きひとつしませんでした。主人のお腹の辺りからは溢れんばかりの出血があり、周りは血だらけでした。
3 月の夜はまだ寒さも残り、どなたかもわかりませんでしたが、毛布をくださったので主人の身体に掛けて、ひたすら救急車の到着を待っていました。傍らで長女が叫んでいた「おとうさん、おとうさん!」いう声は今でも耳に残っています。

その後、警察から連絡を受けた長男、次男が病院に駆けつけた時には、主人は既に息絶えていました。私たち家族は皆、この目の前で起きている現実に、涙を流して悲しむほどの理解が出来ずにいました。それはまるでドラマでも見ているような錯覚を起こしているという状態であったのかもしれません。
そして、それは事件から長い間、ずっと私たちの心の片隅に映像化され、生涯消えないもののような気がします。

この日を境に、私たち家族はいやおうなく「犯罪被害者遺族」になりました。それによって、言うまでもなく私たちの生活は一変しました。女 2 人住いになってしまった私と娘でしたが、幸いなことに長男、次男夫婦が私達を心配し、当面同居してくれることになりましたので、子供たちの心遣いには勇気をもらいました。
この頃、まだ山梨県には私たちのような犯罪被害者を支援してくださるような場所はありませんでした。その中で、担当してくださった山梨県警の方々はとても親切で、親身になって対応してくれたことに、いまでも感謝しています。
大学に通う長女の精神的な支えは、学校の先生方や友人たちだったようですが、娘に私の予想より早く立ち直りの兆しが見えたことは、とてもうれしいことで、そのことでは私自身も奮起させられました。

最初の裁判では、警察の方から申し出を頂いたので、担当して下さった警察官に付き添いをお願いし、私はその公判でも被告に対しての意見陳述をしました。
私の住む山梨県でも、主人の事件から約 1 年が過ぎるころ、被害者の支援をしてくれる窓口である、警察の被害者支援センター開設準備室から、ようやく被害者支援センターが社団法人としてスタートするということを、事件のことで自宅に来ていた新聞記者から聞くことになりました。
そして、警察から被害者支援センターを紹介していただき、それ以降の裁判所、検察庁への付き添いや、日々のちょっとした不安なども気軽に相談出来るようになりました。

私たちのように何の前触れもなく、突然おかれた状況で、裁判など何もわからない時に様々な心配りをしていただき、今考えても、どれだけ心強かったことかと、又どれだけセンターの存在に助けられたのかという思いでいっぱいです。しかし、判決は犯人が犯行時、心神耗弱状態であったとの認定で、判決はたったの懲役 8 年でした。反省の様子も見受けられないうえに、あまりの短さに私たち親族は震えるほどの怒りを感じました。また、私を含め、誰もが地裁で刑は確定するのだと思っていましたが、被告が控訴したことで東京高裁まで傍聴に行くことになりました。
このときには、山梨のセンターで東京にある都民センターに連絡を取ってくださり、一緒にサポートしてくださいました。

ちょうどその頃には、法律による被告のその後の様子等を知ることが出来る「被害者等通知制度」が充実したことで、大切な主人の命を奪った、精神的な問題のあるその男が、刑務所では一体どのような生活をしているのか、また出所してくる時期はいつ頃なのかなど、心配になることの多くを通知してもらうことが出来ることも相談員の方から教えて頂き、不安の中でも、少し安心出来ると感じたことを覚えています。

私のような本当に何もわからない「犯罪被害者遺族」には、被害者を支えてくれるセンターがあることが、大変心強いことだと思います。
私たちのように辛く悲しい思いをしなければならない人がなくなることを願っています。しかし、現実には不可能でしょう。

事件から10年以上経過していても、未だ突然苦しみが生まれることもあります。支援センターの皆様のご活躍は、私たちのような被害者にとっては、これからも期待するところが大きいのだと確信しています。

サッカーの大好きな主人でした。初孫の誕生を楽しみにしていた主人でした。事件から18日後に生まれた孫は、祖父という存在を知らないまま中学生になり、それでも私たちを元気にしてくれています。そして、今も我が家に来るたびに、「じいじ…」と仏壇に向かい手を合わせています。

私は今、自助グループ「ゆるら」の一員をして、あの当時の辛い思いを抱えていた頃から、現在のほぼ日常を取り戻すに至るまでの日々について、思いもよらず被害者となり、色々な不安の気持ちをもって、新たに自助グループのメンバーとして参加する皆様にお伝えしていくことで、辛くても生きて時間を刻んでいく道しるべにしてもらえたら‥と考えながら過ごしています。