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犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 犯罪被害者遺族その後

犯罪被害者遺族その後

公益社団法人とっとり被害者支援センター
自助グループ「なごみの会」
S・T
「犯罪被害者の声第9集より」

(1)あらまし

2002年の仕事納めの翌日、私の息子貴志は日直の責任を果し帰宅した。彼は鳥取日赤病院の薬剤師だった。その夜忘年会の約束がある妻を会場に車で送り、年末の仕事が済んだ安心感から単車に乗り換えてひとり繁華街へと飲みに行った。帰路単車を押しているとヘルメットを忘れた事に気付き急いで店に引き返した。
その時4人組の加害者達に因縁を付けられ殴る、蹴る、踏み付けられるの暴行を受けた。当夜は野次馬も多かったが、誰ひとり警察には連絡をせず、もしその段階で警察が駆け付けていたら、重傷は負っても、生命迄奪われる事はなかったはずだ。その年は年末に街を巡回する警察官が極端に少なく、その2日前にも近くで死亡事故があった。
深夜1時過ぎ警察からの連絡で家族3人は病院へと急いだ。
身体全体、特に顔は見るも無残に変わり果て、正視に耐えられないものだった。
彼は小中学校では剣道を学び県の代表として東京の武道館にも行った。中学から大学迄は駅伝の選手をしていたので、スポーツ心臓の持ち主だった。31才のこの時迄ずっと心身共に健康に育ち、誠実な性格はどこに出しても恥ずかしくない青年だった。
医師からは、たった4~5時間の命と告げられたのに、15日間も意識が戻らぬまま死の淵をさ迷いながら苦しみ、1月12日夜息を引き取った。

(2)当時の鳥取県の現状

2003年はまだ支援センターが設立されてなく、その後の事は全て遺族がやるしかなくて、八方塞がりの毎日だった。判断力も思考力も失せた我々は、手続きのミスもあり、サポートの必要性を肌で感じていた。その頃私は3回も事故を起こした。しかし相手に怪我をさせなかったのが唯一の救いだった。当時はどん底の精神状態なのに、自分で運転しないと何ひとつ片付かない事に困惑しきっていた。すべての感覚は鈍くなり景色からは色が失せ外出は恐怖となった。

(3)2001年北米では……

あの9.11の時には、カナダのトロントにいた。この年は3回両国を往復し妹の看病をしていた。空の便が間引かれる中、期限内ギリギリの処で、やっと帰国出来た。でも妹の癌はもう全身転移し、呼吸困難に陥り、12月中旬3度目の渡加をした。既に妹は遺書も書き記していた。毎日ICU に3人の子らと交替で通い詰め祈り続けたが、1月2日夜、私に最期の言葉を告げ息を引き取った。『お姉さん、この3人の私の宝物を目途が付く迄見届けてね!!』との事だった。その後限られた時間内で妹の遺書に添い告別式や遺品の整理をし、2月中旬に帰国した。遺されたのは長女21才二女19才長男14才だったから、毎週末電話で、無事の確認をして来た。
カナダは医療費は無償です。さらに妹の住んでいたアパートは無収入になると家賃の請求もされなかった。妹がICU にいた頃から、家族には、ソーシャル・ワーカーがピッタリ寄り添ってくれていた。彼女達は妹宅のデータをきちんと作り、それを組織で共有するシステムが構築されていた。多くの情報ネットを通じて社会的弱者になった彼らに次々働きかけ、困難の要因を取り去り、普通の生活に戻すサポートを担うプロだったのです。彼らには、法律的、経済的な手続き、学校の奨学金など、全ての面でアプローチがなされた。住居は半年間は3人がそのまま動かずにいっしょにいて欲しいと指示された。さらに3人には別々のマインド・カウンセラーを付けてくれた。

(4)裁判を通じ大きな不信感、そして病気に

事件から2ヶ月経った日に裁判が開始された。加害者は4人いたが、拘留中に自殺者があり、残る3人が1ヶ月に1回ずつの裁判だが被害者は3回通う事になる。初めて行く裁判所は付き添いもなく、周囲はヤクザ者ばかりで、被害者側が小さく身を寄せ合い周囲からの威圧感と違和感にさらされ続けた。加害者側は弁護士の応援を背に、言いたい放題だが、我々被害者側には発言権は一切認められず、絶望感、喪失感の上に屈辱感迄が渦を巻いて押し寄せた。1名に対し、1回の意見陳述が許されたが、それは単なる形式であり、刑はあまりにも軽く、この裁判中に私は法や人権の平等が如何に出鱈目かを思い知らされた。
その裁判に入った頃から食物を受け付けなくなり、体調は最悪、そして、その先には長い精神のうつが待っていた。

(5)支援センター設置への道のり

2007年2月、県警が県内の犯罪被害者遺族に声をかけ、初の会合をもった。この席で各自が語る内容はどれも悲惨極まりないもので、夫は何とか遺族だけでも、つながりを持つ必要性を痛感したのだった。
そして4月には自助グループ“ なごみの会” として正式にスタートさせた。でも県にはまだセンターはなく、毎月の設立準備会を重ね、翌年2008年6月に正式に設立された。

(6)光市の本村洋さんとの出会い

2008年2月、彼は米子市に講演の為、来県された。終演後、楽屋に関係者が集まり、反省会をした。偶然私の隣に着席された彼は、私にこう告げた。『私は“ あすの会” で被害者の人権を加害者並みに法律を考え直す活動を展開中です。だから“ なごみの会” は鳥取の地から疑問点を発信して欲しい。これらは車の両輪だから、どちらも必要なんです!!』この瞬間私は目から鱗が落ち、社会を少しでも前進させる活動をすべきと胆に銘じた。彼と貴志は同じ広島大学だった。

(7)遺族の体調、病気の問題

脳の中で感情を制御する情動中枢は視床下部の自律神経中枢やホルモン中枢の近くにある為、人はあまりの衝撃を受けると、身体全体が自分の力では制御不能となるのだ。私が病院に駆け付け、貴志を見た瞬間、全身に悪寒が走り、倒れ込んだ。さらに陣痛のような痛みに襲われ、やっとの事で洗面所にたどり着くと信じられない大出血だった。
これは1週間も続いた。
この12年間夫は癌、ヘルペス、重度の腰痛、私もその後、子宮全摘出手術、白内障手術、肺癌など現在も通院中を入れたら際限がない。
しかし最も深刻なのは、娘の場合だった。貴志の事故の4ヶ月前に結婚し県外で働いている娘は10年間不妊に苦しみ続けた。自分より後から結婚した友人達が次々と順調に親になる姿を見て惨めだったと思う。不育症も何度か経験していた。
2012年2月15日NHK の「クローズ・アップ現代」に名古屋市立大学の杉浦真弓教授が出演された。テーマは“ 卵子の老化” だった。後から娘に聞くと、この教授に相談に行きアドバイスをもらっていた。
それは『今の医療技術の高さを信じて、思い切って次のステップに挑戦しよう』という事だった。それで、卵子凍結体外受精を決断し、38才で第1子、40才で第2子に恵まれた。これは娘が遅まきながら積極的に不妊と向き合って、治療を受けた事が功を奏した。しかしこの10年間にかけた時間、労力、費用はあまりにも多大なものだった。

(8)被害者遺族からの要望

ある日突然突き落とされた奈落の底から、犯人達を見ると、刑期中は衣食住、冷暖房完備、おまけに、ドクター、ナース付きで、生命はしっかり保護されている!! この待遇は何だろう?と言いたい。我々の血税が大量に惜しみなく加害者側には使われているのだ!! 一方我々被害者側はカナダのような国家的救済システムがなく、家族が生きていく為には、少々体調が悪くても無理を承知で働き続ける。病気になればすべて自費で治療するのだ。
“ あすの会” の本村洋さん達の努力により、裁判員裁判の制度も出来、私の時よりは、少しだけ良くなったが、まだまだ先進国と言うには、あまりにもお粗末で、被害者側には人権がないも同然だ。不条理の中を必死で生き抜こうとしている被害者達の声を国や社会はもっと真剣に聞くべきではないのか!!
今の世の中、誰でも、いつ突然、被害者にならないとは限らないのだ。