犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 あなたはママの自慢の子

あなたはママの自慢の子

公益社団法人みやぎ被害者支援センター
S・S
「犯罪被害者の声第10集より」

私の息子は、平成12年7月7日、青信号横断中に信号無視をした当時29歳の男性が運転する大型特殊クレーン車により轢き殺されました。
たった一人、私達家族から引き離され、この世から突然、葬られてしまいました。母親である私は、息子を守ってあげる事ができませんでした。特大クレーン車で、信号無視をする危険さ不注意と一言で済まされるものでは決してありません。そのタイヤは翔樹の背丈以上のものでした。
「なぜ、我が子がこんな姿で殺されなければならなかったのでしょうか。」「なぜ、青信号の横断歩道で命を絶たなければならなかったのでしょうか。」「行ってきます。」それが、息子の最後の言葉となりました。そして、あの日を境に辛く悲しく、寂しい毎日が始まりました。
また、この日から、私は遺族と呼ばれるようになりました。

今何処で何をしているのか。友達ともっと遊びたかったのに違いない。勉強や運動だってもっとしたかったはず。一緒にいるのが当たり前だったあの頃に戻りたいと、何度願った事でしょうか。
平成12年7月7日のこの日は、午後から授業参観日となっていました。私は「必ず、お母さんが行くからね。」と言い、息子は登校しました。しかし、なぜか、家を出てすぐに戻ってきました。その時の翔樹の様子は何かためらっているかの様な、そぶりでしたが、またすぐに「行ってきます。」と言い、登校して行ったのです。これがあの子の最後の言葉となりました。虫の知らせとは、この様な事を言うのでしょうか。あの時なぜ、もっと翔樹と話をしてあげなかったのでしょうか。もし、話をしていたら、あのクレーン車に轢き殺される事は、無かったんじゃないか。そんな思いで、心がかきむしられ、悔やんでも悔やみきれません。

そして20分程経ち、翔樹が事故に遭ったと小学校から電話がありました。一人では来ない様に言われ、かけつけて現場で目にしたもの。
それは、何台ものパトカーと沢山の人だかりでした。私は、沢山の人だかりをかき分け、息子を探しました。それと同時に「お母さんが来たわよ。」「気の毒に。」そんな言葉が聞こえてきました。交差点に辿り着き、学校の先生に「翔樹はどこですか。」と聞きました。「そのままもう…。」と言われ、指を差された先には、大量の血と肉片がシートの周りに飛び散っていました。シートの下にいるのは、本当に翔樹なのだろうか。ついさっきまで、ご飯を食べ会話をし、自分の足で歩いていました。もちろん、生きていたのです。私は顔を見て確かめなくてはと思いました。が、止められました。「見ない方がいい。」「見せない方がいい。」そんな声が聞こえてきました。私は気がついたら家にいました。そして、家の中を見渡せば、朝食の後、そして二段ベッドの前には、翔樹が脱ぎっぱなしにして行ったパジャマがありました。
さっきまで、ママって呼んでくれていた翔樹は、もうこの世にいないのです。私は、頭が混乱して理解できませんでした。とにかく、翔樹の顔を見ていないし、何かの間違いかもと…心の中でそう願っていました。
ところが午後になり、ようやく戻ってきた棺の中を見て、私は愕然としました。全身包帯で巻かれていて、顔を見ることができませんでした。抱くどころか、触れる事すら許されない状態でした。髪の毛でもいい、爪でもいい、幾度も葬儀屋さんに頼みましたが、駄目でした。

私が触れる事ができたのは、翔樹が最後まで身に着けていた衣類とランドセルでした。鞄のベルトは引きちぎられ、ペシャンコに潰れていました。筆箱も鉛筆も楕円に潰されていました。どんなに怖かった事でしょうか。どんなに痛かったでしょうか。代われるものならば、代わってあげたかった。衣類はボロボロに裂け、血まみれで皮膚が沢山ついていました。洗っても洗っても水が血で真っ赤になりました。狭い家の中は、血のにおいで一杯になりました。その日、夕方5時になっても翔樹は帰ってきませんでした。ゲーム機を片手に「ママただいま!」と飛びついてくる、いつもの翔樹を。でも、6時になっても外が暗くなっても、息子は帰ってきませんでした。
棺の中は、やっぱり翔樹なんだと、全身の力が抜け、一体、今、自分の身に何がおきているのか、訳が分からず、錯乱しショックで身体の震えが止まらず、泣き崩れてしまいました。私達家族にとって、一生忘れる事がない、強烈に焼き付いた一日でした。

当時、私は妊娠初期で、流産しかかりました。お腹の赤ちゃんは、かなり危険な状態に有り、絶対安静の入院を勧められました。それでも、片時も翔樹の側を離れる事ができずに、病院と通夜会場、葬儀会場を行ったりきたりの数日でした。また、子供を亡くす事になってしまうとさえ言われました。そんな厳しい選択の中、通夜の準備が始まり、祭壇選びから、遺影の写真選び、死体検体書を病院へ取りに行くなど辛い作業を突きつけられました。

斎場で私は、棺にすがり「このままの翔樹でもいい。」「死んだままでいいから、焼かないで。」と絶叫していたらしいです。事故に遭い、痛い目に遭わされ殺された。そのうえ、焼かれてしまうなんて、翔樹が何をしたというのでしょうか。どうしてこんな目に遭わなくてはならなかったのか。また、自分の子供の骨を拾うことが、こんなにも悲しく辛く、悔しい事とは、想像した事もありませんでした。

通夜と告別式で、私は翔樹を探していました。一人一人の顔を確認し、もしかしたら、翔樹が紛れているんじゃないかと。もちろん、いるはずがありません。この時の私には、理解できませんでした。
翔樹は、交通ルールを守り、青で安全を信じきって横断歩道を渡っています。その横断歩道を渡りきる事ができずに、突然この世から葬られてしまいました。きっと自分の身に、何が起きたのかも分からずに私達家族から、たった一人引き離されたのです。もう翔樹に逢えない恐怖と絶望、そして逆縁とは、こんなにも辛く、身が引き裂かれるような苦しみとは思いもしませんでした。

それでも私は、与えられた使命と自分自身に、言い聞かせ、息子が生きられなかった人生を精一杯生きていこうと思います。