犯罪被害者に寄り添い支える 公益社団法人 全国被害者支援ネットワーク

全国被害者支援ネットワークは、全国48の加盟団体と連携・協力しながら
犯罪被害に遭われた方々へ支援活動を行なっています。

犯罪被害者の声 あの日から止まったままの家族の時間

あの日から止まったままの家族の時間

公益社団法人ぎふ犯罪被害者支援センター
M・O
「犯罪被害者の声 第19集より」

国道の道路工事現場に居眠り運転で突っ込んだ自動車によって、息子・Tの命は奪われました。
あの事故以来、私たち家族の時間は止まってしまいました。好きだった絵を描きかけのまま机に置かれたノート、色々調べたり仕事の資料を作っていたパソコン、続きを読もうとしていた本…、息子の部屋は「行ってきます」といつものように出かけて行ったあの時のまま、手を付けることができずにいます。息子がいつも居間で楽しんでいたゲーム機は、帰って来たら続きが始められるように電源が入ったままです。
息子が亡くなったことを、今も受け入れることができません。辛くて何ひとつ片付けることができないまま、時間が止まっています。この先も片づけることはできないでしよう。
あの日、深夜に息子の会社から電話があり「事故で意識不明」との知らせでした。状況がわからないまま、妻と2 人で病院に駆けつけると、懸命な蘇生が続けられていました。「どうしてこんなことに!?」と混乱する頭の中で、妻と2 人「T、頑張れ!!」と祈り続けましたが、息子はそのまま手の届かないとろに旅立ってしまいました。
ついさっき、元気な姿で出かけて行ったのに、再び対面した息子の体は傷だらけ…。特に頭部の傷は骨が見えるほどでした。「痛かっただろう」と妻と2 人で泣きました。あの夜のことが頭から離れません。
息子が勤めていたのは、私の親族の会社でした。息子を託したかたちで勤続20年。これから管理職にと将来を期待していただいていました。「こんなことで息子さんを亡くしてしまい、お詫びのしようがない」と会長さんが頭を下げられました。
社内では「ノンノン」という愛称で呼ばれて慕われていました。テレビドラマの「名探偵ポアロ」がよく使う言葉で、「それは違うよ」という時に、ポアロを真似て「ノンノン」というのが息子の口癖だったからです。
職場では現場責任者を務め信頼を受けていましたし、優しい性格でしたので、社員や業者さんからも慕われていたようです。お葬式には会社の人たち、関係業者の方たち60名以上の方が、涙を流して見送ってくれました。
事故から半年ほど後には、生前の貢献に対して、特別功労警備員として岐阜県警備業協会から表彰を受けました。今も会社の玄関のカウンターには息子の写真が飾られ、出勤してくる社員を迎えています。

息子は幼い頃から明るく優しい子どもで、大人になってもそれは変わりませんでした。 ドライブや鉄道のゲームが好きだった息子と写真が趣味だった私は、月に2 回、1 泊や日帰りで鉄道沿線をめぐる旅に出ていました。路線の制覇をしようと話しながら、中部地方や関西方面の鉄道沿線をほぼ走り回りました。私が好きな風景写真を撮れるように、あちらこちらと場所を調べてナビゲーションをしてくれました。そして帰りには必ず、母親と2 人の姉妹と時には会社の同僚たちにお土産を忘れない思いやりのある息子でした。
息子がいなくなってから、旅番組で映る風景やニュースで流れる地名に、不意に想い出が蘇ってきます。「なぁ…T、あそこも一緒に行ったなぁ…」とひとり言が出てしまいます。楽しい想い出のはずなのに、胸が締め付けられる思いがします。ひとりではどこにも出かける気持ちになれません。

母親である妻も辛い日々を送っています。「眠れない」「眠れば息子が夢に出てくる」とこぼしますが、どんなに眠れなくても、20年間、息子の弁当作りをしていましたから、早朝になると習慣で目覚めてしまいます。体調を崩すようになり、数か月後には大動脈解離で倒れて緊急手術となりました。術後も原因不明の出血や発熱が続き、検査を繰り返した結果、 心臓の弁が「溶けている」ことがわかり、人工弁への交換と心臓を取り巻く血管の人工血管への取り換えに20時間の大手術を受けました。医師によると検査では異常が見つからず、状態がこれほど悪くなった原因はわからないとのことでした。私は、心労からくるストレスではないかと思っています。2 ヶ月に及ぶ入院をしました。

事故現場は交通量の多い自動車専用道路ですから、花をたむけたいと思っても歩行者が立ち入ることはできません。事故現場を車で走り、車内から家族で手を合わせて「南無阿弥陀仏」と唱え、安らかに眠って下さいと祈ることしかできません。私用でよく通る道ですから、事故現場の「53キロポスト」を通るたびに息子を想って合掌します。辛いです。

賑やかな団らんの中心だった息子、頼りにしていた長男…、家族思いだった息子と一緒にやりたいこと行きたい場所は、まだまだたくさんありました。どんなに嘆いても、幸せだった日々を取り戻すことはできません。遺族は苦しみや悲しみを一生背負っていかねばなりません。
健康だった息子にむごい死に方をさせたこと。それとともに、家族の健康や希望も奪ったこと。加害者にはそのことを、絶対に忘れないでいてほしいと思います。

裁判で、加害者が睡眠時無呼吸症候群を患って(運転中に無意識に寝てしまう)いることがわかりました。会社の健康診断でも指摘されていましたが、診察にも行かず放置し、その危険性を無視して運転業務につき、今回の事故を起こしたこともわかりました。この事故で息子が亡くなり、他3 名の怪我人が出て、交通規制用の備品などを壊したこと、なんの落ち度もない息子たちに居眠りで突っ込んだことに、許せない気持ちが大きくなるばかりでした。
判決は、「3 年の禁固刑 5 年の執行猶予」になりました。事前に検事さんから概ねの量刑を聞いていましたから驚きはしませんでしたが、判決が重いか軽いのかはわかりません。
加害者側からは、親と勤めていた会社が通夜の折に一度詫びに来て以来、何の連絡もありませんでした。判決後に、加害者からは謝罪の手紙と口頭で詫びる言葉を伝えられましたが、「反省している」とロでは言っても、5 年、10年もたてば自分の犯した罪も忘れて行くのでしょう。「これで許されたわけではなく一生謝罪の気持ちを忘れないでほしい」と伝えました。刑期が過ぎれば罪が無くなるということではない。被害者は、一生悲しみを抱いて生活して行くのです。一生、人の命を奪ったことを忘れることなく、償いの気持ちを背負って生きて行ってほしいと思います。

裁判では、息子の思いを意見陳述書で伝えられて、皆さんに知ってもらえて良かったと思います。加害者にはどこまで感じてもらえたかわかりませんが、判事さんたちには知ってもらえたと思います。
判決の数日後に、息子の一周忌法要があり、仏前で意見陳述書を読み上げ、裁判の結果などを報告しました。
また、そのひと月後、東京で開催された全国警備業協会の「全国警備業殉職者慰霊祭」に招かれてお祈りしてきました。その時、会社の社長さんが「よく仕事ができ、リーダーとなり隊員から慕われていて、明るくて優しい人を亡くして非常に悲しい出来事でした」と涙ながらにお別れの言葉を述べられました。聞いている私達夫婦も目頭が熱くなり、涙がこぼれました。殉職者に渡されるメダルをいただき、帰ってから仏前に供えました。

例年通り初詣に行き、息子の好きだったういろうを買って仏前に供え、家族で食べながら息子を偲んだ新年。携帯電話に地震警報アラームが鳴り響き、能登半島に地震がありました。
能登半島は、息子の亡くなるひと月前に氷見から七尾市を通り、能登の見附島(通称「軍艦島」)、珠洲市の最先端の灯台、ぐるっと回って能登の塩田、輪島の千枚田、また道中の綺麗な海岸線や滝を2 人でれた事を思い出しました。「大好きで何度も訪れた能登半島が凄いことになってしまったよ…」と、息子に語りかけました。被災された皆様には深くお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りします。

今回の大震災に見舞われた人々の悲しみ苦しみを考えれば、我が家のことなどは小さなことかも知れませんが、同じ悲しみをもって一生暮らして行くことは変わらないと思います。被災者の人たちは乗り越えて行かれるでしょう。私たちも乗り越えて、前に進んで行きたいと思います。