追憶
公益社団法人あおもり被害者支援センター
自助グループ「犯罪・交通事故被害者遺族のつどい」
Y・S
「犯罪被害者の声 第19集より」
娘が亡くなって二十五回目の春を迎えた。今ちょうど桜がまっ盛り。春まつりのイベントがあちらこちらで行われ、多くの人で賑わっている。
まつりの好きな娘は、友だちとよく出かけたものだ。そして、後から行った私の姿を見つけると、「お母さーん」と手を振ってくれた。そんな娘の姿が目に焼きついている。
今年も久しぶりに春まつりに出かけてみたが、娘の呼ぶ声を聞くことはなかった。
帰りに娘の好きなお好み焼きを買ってきて仏壇に供えた。
私は四十九歳まで何事もなく過ごしてきた。そんな幸せな人生なのに恐ろしいことを考えていた。いつも平平凡凡でつまらないなーと。きっとバチが当たったのだろう。二十歳の誕生日を目前に娘が突然逝ってしまったのだ。これ以上の悲しみはない。
平成十三年三月三日ひな祭りの日。
娘は仕事から帰ってきて寿しを食べながら、ラーメン通の主人に、「お父さん、おいしいラーメン屋を見つけたよ」と言って店の名前と場所を教えた。そしてバイト先で知り合った友だちと会うため出かけて行った。私はその時二階にいて娘の「いってきます」の声は聞こえず、玄関の戸を締めるバターンという音だけが耳に残っている。元気に出かけた娘の最後の姿を見れなかったのが残念でならない。
その日は朝から首の付け根が痛く、とても気がかりだった。娘の帰りを待ってこたつでうとうとしていた時、けたたましい電話の音が鳴り響いた。不吉な予感がした。恐る恐る受話器を取ると警察からで、娘が交通事故に遭って意識不明で病院に運ばれたとのことだった。
ショックで目の前がまっ暗になった。
急いで主人を起こし病院へかけつけた。車の中で、娘の意識は絶対戻ると言い聞かせている自分がいた。
病室へ通され、人工呼吸器をつけてベッドに横たわっているのは紛れもなく私の娘だった。娘の変わり果てた姿にまるで悪夢を見てるかのようだった。
「M、M」
と、何度呼んでも目を覚ましてはくれなかった。
友だちの運転する車がカーブを曲がりきれず電柱にぶつかったとのことだった。
しばらくして先生の話があり、一番大切な脳幹が損傷しており手の施しようがないと言われた。
私は奈落の底に落とされたような気がした。
その晩から一人ずつ付き添うことになり、私は二日目についた。
一晩中今までの思い出話をし、天国へ持たせてやる手紙も書いた。
五日目に娘の友だちから、どうしても付きたいと言われ、付いてもらうことにした。
その次の朝、病院から電話があり、容態が急変したのですぐ来て下さいとのこと。急いでみんながかけつけた時には、胸骨圧迫の処置をしてくれていた。それを見ていた主人が、「私にもやらせて下さい」とお願いし、何回か娘にやってあげることができた。主人の言葉を聞き入れて下さった先生に感謝している。
娘はきっと一番会いたかった友だちと一晩中話ができ、思い残すことなく旅立ったのだと思う。
みんなに「ありがとう」と言いながら・・・
たくさんの夢や希望があっただろうに。できることなら私の命をあげて助けてあげたかった。
娘は成人式に出るのをとても楽しみにしていた。半年前に母が娘に振袖をプレゼントし、予約をしていたのだ。母は呉服屋に行って事情を話して仮縫いして頂き、棺にかけて送ってあげることができ本当によかった。娘もきっと喜んでくれたに違いない。
主人と長男から裁判をしようという話があったが私は断った。娘の友だちに対する思いを知っていたので、もし裁判したら娘は悲しむだろうと思った。「お母さん、やらないで」と言われているような気がした。
娘は昭和五十六年五月十日に生まれた。待望の女の子だった。
娘はとても優しい子に成長し、やんちゃな弟の面倒を見てくれたり、私の手伝いもよくしてくれて助かった。
幼稚園の時、熱があるにもかかわらずお遊戯会で頑張って踊ったり、二年生からピアノを習い始め、毎年のピアノ発表会はとても楽しみだった。四年生になってバトン部に入り、数々の大会やイベントに参加し、素敵な笑顔とみごとな演技を披露した。六年生の学習発表会で「君をのせて」のピアノ伴奏をし、今でもこの曲を耳にすると涙が溢れてくる。中学校ではテニス部に入り、頑張った。
高校に入ってバイト先で知り合った友だちと交際するようになり、生活も乱れてきた。娘とはいろいろな葛藤があった。
高校卒業後はエステ関係の会社に入社し、その半年後研修会があった。その時「母への手紙」を書かせたようで、それが私の所に送られてきた。その手紙には、「今まで心配かけてごめんなさい。そして私のことを大切にして下さってありがとうございます」と書かれてあった。私の気持ちをわかってくれたんだなと思うと嬉しかった。
この手紙は私の宝物として大切にしまってある。
それから半年後にあの事故に遭った。
成人式の日、娘の友だちと一緒に遺影を抱えて出席した。娘がどんなに楽しみにしていたかと思うと、最初から最後まで涙が止まらなかった。
娘が亡くなったのは私のせいだと自責の念にかられている。
娘がバイトをしなかったらあの友だちに出会うこともなかったろうに。バイトのことで相談があった時、やめさせておけばよかった。娘に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
娘が亡くなった当時はとても落ち込んでどうにもならない自分だった。そんな時、同じ年に息子さんを亡くされたTさんと知り合い、自分の気持ちをわかってもらえてありがたかった。
その後、Tさんはいろんな所に働きかけ、十三年前には被害者支援センターが立ち上がった。センターでは現在「つどいの会」を毎月一回開催され、被害者遺族たちの心の拠り所となっている。また、Tさんは中学校や高校で「命の大切さ」の講演をして歩いている。それと同時に「いのちのパネル」も展示し、その中に娘を入れさせて頂き、少しでも皆さんのお役に立てればと思っている。
Mへ M、あなたとこんなに早く別れるなんて思ってもいなかった。
あなたが逝なくなってわかったよ、あなたは私のかけがえのない宝物だったと。
そして、明日は何が起きるかわからないことも教えてくれたね。
たくさんの思い出をありがとう。
あなたが教えてくれたラーメン屋、墓参りの後に行ってるよ。とってもおいしいね。 M、私の子供として生まれてきてくれてありがとう。
生まれ変わってもまた母娘(おやこ)になりたいね。
あなたのことはいつまでも忘れないよ。
